ゲーテ著「イタリヤ紀行(上)」より  1776年10月10日

ようやくこれで私も喜劇を見たと公言することができることとなった。聖ルカ劇場で今日"Le Baruffe Chiozzotte"が演ぜられた。それはつまり「キオッツァの喧嘩口論」とでも訳さるべきものである。役者はことごとこキオッツァの住民である漁夫で、それに彼らの妻、姉妹、娘たちが交じっている。これらの人々の善きにつけ悪しきにつけ習慣となっている叫喚、争論、短期、気だての良さ、愚鈍、機知、諧謔、わざとらしくない挙動--すべてがいかにも巧みに模倣されていた。なおこの芝居はゴルドーニの作である。それに私はつい昨日その地方に行って来たばかりであって、漁夫および港の人たちの声や物腰がなお眼に映り耳にのこっているので、この劇はひとしお興味深かった。ここの点に関しては解らないところもあるにはあったが、しかし全体の筋は充分によく辿ってゆくことができた。構想はこうである。キオッツァの女どもが家の前の船着場に腰をおろし、いつものように紡いだり、編み物をしたり、縫い物をしたり、鋏の音をさせている。そこへ一人の若者が通りかかって、一人の女に他の女よりも格別親しげに挨拶する。そこでやがて当てこすりが始められる。それが度を増して、だんだん烈しくなり、嘲笑にかわり、さらに高まって攻撃となり、ますます無礼がつのって、ついには性急な一人の隣の女が真実をあばいてしまう。そうなると悪口、雑言、絶叫が一斉に爆発し、極端な侮辱的行為さえ行われたので、やむなく裁判所の人たちが干渉することになる。

第2幕は法廷の場面である。裁判官は貴族の身分として、芝居に現れることができないのであろう。書記がその代理となって女たちをひとりひとり召喚する。ところが書記は自身例の女に惚れ込んでいて、二人きりで話しうるのを幸いに、訊問の代わりに自分の意中を女にうち明け、事態は怪しくなってくる。そこへ書記に惚れている別の女が焼き餅をやいて飛び込んでき、例の女の情夫も興奮して同様に入ってくる。他の者もそれにつづいてきて、新しい攻撃が加わる。そしてついに法廷も前の波止場と同じように大騒動になってしまう。

第三幕では諧謔がさらに度をまし、全体が急速な間に合わせの解決で終わりを告げる。しかし、もっとも成功した着想が次に述べるような一個の人物において表れている。 若いときからの苦しい境遇のために手足の自由を失い、殊に充分口の利けなくなった老船頭が、活発な口数の多い、むやみにわめき立てる連中と対照をなして登場する。彼が自分のことを言い出すまでには、いつもまず唇を動かし、手や腕を働かせながら、下準備をする。しかもなおそれが辛うじて短い文句となって口をでるに過ぎぬので、彼には常に簡潔な真面目さが板についていて、彼の言う事はすべて格言か金言のように響き、他の人たちの乱暴で熱情的な行為とちょうどうまく平均がとれるのである。

自分自身や自分の家族のものたちがいかにもありのままに演じ出されるのをみて、見物はやんやと喝采するのだが、こんな面白い光景を私は未だかつて経験したことがない。初めから終わりまで哄笑と歓呼の連続である。しかし私はここに俳優の芸が優れていたことも認めなくてはならない。彼らは人物の性質に応じて民衆の間に一般に行われているような種々の声をば、めいめい使い分けた。スターの女優は最も愛らしく、最近女丈夫の服装で情熱的な役を演じたときよりもはるかによくやった。概して女優は、なかんずくこの女優は、民衆の声と挙動の本姓をきわめて優美にまねていた。またつまらない材料からこんな愉快な慰みをつくりあげた作者も大いに賞賛に値する。これもまったく直接に自国の楽天的な民族を相手にしてこそできることだ。作者は実に達者なものである。
(岩波文庫 イタリヤ紀行(上) 相良守峰訳 p127-129)